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オリジナリティと星の器の話

オリジナリティって何だろう?


カットをしていると、自分が作ったスタイルが何処と無く似てきてしまう。

その人に合わせてスタイルをつくっているはずだけど、自分の審美眼でつくるからなのか?

何故かテイストというか、雰囲気が似ていくような気がします。

ナチュラルとかシンプルとか
自分のこれは良いとか、好きとかで
スタイルをつくっていく。

それは果たしてオリジナリティなのだろうか?
オリジナリティは本当は相手側にあって、
その人その人それぞれの中にある。

それを魅力的に表現する事が僕らの仕事だとしたら、
審美眼を磨いていく事や、
より技術を洗練させていく事は必要だけれど、自分オリジナルとかはいらないのではないか?


最近僕が読んだ本
脳科学者の茂木健一郎さんの
外国向けに書かれた本「IKIGAI」の逆輸入版。

その中に興味深い一節がありました。
ちょっと引用してみますが、その前に、
ここで出てくる「星の器」とは曜変天目茶碗の事です。

曜変天目茶碗とは、天目茶碗の中で最上級とされるもので、世界に三つしか残っていない(あるいは4つ)。
そしてそのすべては日本にあり、いずれも国宝に指定されています。

今日、どのようにして曜変天目茶碗が作られたかは、陶器作りの歴史の中で、最も大きな謎の一つになっていて、未だに再現が難しく
名のある陶芸家たちが一生をかけても再現出来ないという、古の芸術品です。

ここから引用
~~~~~~~~~~~~~~~
日本の骨董品愛好家の中では、ときどき次のように言われることがある。
━「無意識の創造」が一番の傑作を生みだすのだ。
現代の芸術家は、自分たちの個性を意識しすぎるようになってしまったと言われる。

古の時代の芸術家は、創造者としての権利を主張するために制作を行うことはなかった。彼らはただ自分の仕事をしていた。日常の中でこれを使う人々が、使いやすいと思ってくれるように焼き物作りをするだけで、それ以上のことはなんら期待していなかった。

古代から残っている陶磁器は、純粋で、誠実な姿を呈している。

骨董好きの人々によれば、現代にはそのようなものはないそうだ。
これらの器には、匿名の美があるのである。

自己の重荷から解放されて、フロー状態にあるならば、それは仕事の質に表れる。
星の器の美は至高であるが、それはこれらが無意識の努力の産物だからだ。
星の器を再現しようと現代に試みても、古のものにある穏やかな美をつくりだすことができないのは、それが何か特別に美しいものをつくりだしたいという、意識的な行為になってしまっているからかもしれない。
~~~~~引用終わり~~~~

 
僕らは器を作っているわけではないし、
芸術家でもない。

だけどこれを読んだ時、何か僕らの仕事ともつながっているような気がした。

純粋で誠実な姿。
穏やかな美。
匿名の美。

ここに出てきた
そんな言葉に心が惹かれました。

使いやすいと思ってくれるように焼き物作りをするだけで、それ以上のことはなんら期待していなかった。

そんな作り手側の気持ちにも、
純粋さや誠実さがあらわれていて
心に響きます。


おかしいですかね?
無意識の創造というと、
偶然とか、計算してなくてたまたまとか
そう思ってしまいそうですが
そうではないという事だと理解しました。

フロー状態というのは、
目の前の事にのめり込んで
完全に浸り集中した無我の境地。

そこから生まれる物は
純粋で誠実な形をしている。

そうだとしたら、自分が想い描く
自然体の佇まいが美しいとか綺麗だとかは、
そんな所から生まれるのかもしれない。

そう思うとワクワクする。

もっと無我夢中になれたらいい。

芸術品を作っているわけではない。

そうなのだけれど、
その人その人に寄り添えて
頭の中でその人が素敵になる姿を妄想して
自分がなくなる位に夢中になれたら。

もしかしたら、もっともっと
その妄想が少しでも近づき現実になって
喜んでくれるかもしれない。

そこに何にも代えがたい喜びを感じる。
 
もっと無我夢中になりたい。。。



 
今日は以上です!

それでは今日も良い1日を(^_^)/~~
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